九州南北朝時代の足跡をめぐる
令和元年、そんな南北朝及び南朝方の菊池一族に関連する歴史と文化資源を活用することを目的に、菊池市(熊本県)・八女市・小郡市・久留米市・うきは市・大刀洗町の5市1町で「南北朝・菊池一族歴史街道推進連絡協議会」を立ち上げました。
6自治体に伝わる南北朝・菊池一族関連の史跡や歴史文化などをご紹介します。
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南北朝時代
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1333(元弘3)年、鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が新しい政治体制を立ち上げました(建武の新政)。しかし、建武政府に不満を持った足利尊氏は、後醍醐天皇を比叡山へと追いやり、新しく光明天皇を擁立します(北朝)。一方、京都を追われた後醍醐天皇は、吉野へ移って朝廷(南朝)を樹立し、その正当性を主張します。こうして、南北朝が並び立って互いに争う構図ができました。
1338(延元3・暦応)年、後醍醐天皇は勢力回復を目指し、各地に皇子を派遣します。九州には征西将軍として懐良親王が下向しました。1348(正平3・貞和4)年、親王は苦難の末、当時の九州南朝の主柱である肥後の菊池武光のもとに到着し、征西府として徐々に力を蓄えます。
1349(正平4・貞和5)年、足利尊氏の執事・高師直と、尊氏の弟・直義の対立から幕府が分裂し、尊氏・師直派と直義派が対決するという事態になります(観応の擾乱)。尊氏の実子でありながら直義の養子となっていた足利直冬は、尊氏が直冬討伐の兵を発したため、九州へ逃れました。九州に入った直冬には、少弐頼尚らが味方につき、その結果、九州は南朝方・幕府方・直冬方の三者が鼎立することになりました。この状態は、1352(正平7・文和元)年、筑前で直冬が一色軍に敗れて九州を離れるまで3年余り続きました。
1359(正平14・延文4)年、九州南北朝の雌雄を決する大保原合戦(大原合戦)が小郡市周辺で繰り広げられます。その戦いの様子を、室町時代に記された軍記物語『太平記』から紐解いてみましょう。7月、南朝方が大宰府へ攻め寄せてくるという情報を得た少弐頼尚は、敵を迎え討とうと筑後に出陣し、その6万余騎の軍勢は味坂庄(小郡市鰺坂)に陣をとりました。一方、南朝方(宮方)は8千余騎が高良山・柳坂・水縄山の3か所に布陣しました。
7月19日、菊池が手勢5千騎を率いて筑後川を渡り、少弐勢へ向かって押し寄せましたが、少弐頼尚は応戦せず、退いて大原(大保原)に陣を取りました。
8月6日夜半、菊池勢は夜討に慣れた兵300騎で少弐勢の搦手(敵の背面または手薄なところ)へ迂回させ、主力の兵7千騎を三手に分け、川音に紛れて少弐軍へ接近します。正面大手の寄手が少弐本隊へ近づいたのを見るや、搦手からの300人が一斉に敵陣へ討ち入り、3か所同時に鬨の声を上げました。こうして卯の刻より酉の下刻(午前6時~午後7時、軍忠状によれば深夜2時~午前10時)戦い、少弐方は一族の者23人、郎従400人、その他軍勢3226人までもが討たれたので大宰府へ撤退し、宝万ガ嶽(宝満山)に引き上げました。菊池も勝ち戦はしたものの、討死した者を数えると1,800余人あったといわれます。1361(正平16・康安元)年、征西府が大宰府に入ります。その後、約11年間にわたって征西府は大宰府にあり、この時期が九州における南朝方の全盛期でした。しかし、1372(文中元・応安5)年、北朝方の九州探題である今川了俊により大宰府を落とされ、懐良親王らは高良山、さらに菊池へと撤退します。その後、征西府が再び九州で覇権を握ることはありませんでした。
1392(元中9・明徳3)年、南北朝の合一がなされ、長く続いた争乱の時代は終わりを告げました。
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小郡市
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小郡市は、筑紫平野と福岡平野の間に位置し、古来より多くの人々が行き交った交通の要衝です。古代から中世まで九州を統括していた大宰府にも近く、南北朝時代には、九州を二分する南朝方と北朝方が雌雄を決した大保原合戦(大原合戦)の舞台となりました。
市内には今でも合戦に関する史跡が残っており、戦いのあった夏を中心に毎年多くの人が訪れます。【福童の将軍藤】
大保原合戦で深手を負った懐良親王が、大中臣神社に傷の回復を祈願したところ、その加護で全快したことに感謝し、藤の木を奉納したと伝えられています。被覆面積は約500平方メートルに及び、1970(昭和45)年に県の天然記念物に指定されています。【善風塚跡】
大保原合戦では、両軍に多数の犠牲者が出たとされ、それら戦死者を葬ったとされる塚がいくつもありました。小郡市立大原小学校がある場所には3つの塚からなる大善風と、その北側100メートル余の所に4つの塚からなる小善風がありました。この7つの塚は、合戦で亡くなった両軍将士の墳墓であろうといわれています。【善風寺跡】
善風塚跡に近い三沢字寺小路には、戦死者の供養のために南北両軍が協力して建てた善風寺があったといわれています。1675(延宝3)年に書かれた久留米藩の地誌『北筑雑藁』に「寺が廃れてから70年余りになる」とあり、これに従えば、江戸時代初期には寺は無くなっていたと考えられます。
これまで善風寺の存在は確認されていませんでしたが、近年の発掘調査でこれに関係すると考えられる区画溝や井戸・土壙墓などが見つかり、それらからは時期の合致する軒丸瓦・軒平瓦・土師器が出土しました。また、この地域の集落変遷の大きな画期が14世紀にあり、その後に営まれた大保西小路遺跡などでは仏教に関係する遺物が出土しています。これらを合わせて考えると、伝承通りこの地に善風寺が存在した可能性は高いと考えられます。【大原古戦場碑】
小郡市役所横の東町公園の奥、小高く盛り土した上に南面して立つ、自然石の「大原古戦場碑」。1359(正平14・延文4)年、現在の小郡・三沢・大保・福童・山隈などを中心に繰り広げられた大保原合戦の記念碑で、1911(明治44)年10月、当時の三井郡内の学校職員・生徒により建立されました。
公園内には、他にも合戦に関連する碑や案内板などがあります。【高卒都婆】
自衛隊の自動車訓練場横の墓地の一画に、1923(大正12)年に三井郡教育会が建てた「史蹟高卒都婆」の碑があります。碑の裏面には「大保原戦ニテ戦没セシ将士ヲ埋葬供養セシ所ナリ。今尚此附近ヨリ屡々多クノ枯骨ヲ発掘ス」と彫られています。この付近が合戦の戦死者を葬り、冥福を祈るため卒塔婆を立て、千僧相寄って供養した場所とされています。毎年、地元の保存会を中心に慰霊祭が行われています。【福童原古戦場跡】
大保原合戦の後、1361(正平16・康安元)年に懐良親王・菊池武光ら征西府は大宰府入りを果たします。しかし、北朝方は今川了俊を九州探題に任命し、1372(文中元・応安5)年、大宰府を奪還しました。高良山に退却することになった懐良親王ら征西府でしたが、了俊は高良山の征西府を攻めるために福童原に陣を敷き、1374(文中3・応安7)年9月に高良山を攻略、征西府は菊池へ撤退しました。そしてこの後、征西府が再び九州で覇権を握ることはありませんでした。
福童原古戦場跡は、了俊が陣を敷いた場所です。問合せ先
小郡市教育委員会文化財課
☎0942-75-7555
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うきは市(文責:うきは市)
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福岡県うきは市は、2005(平成17)年に旧浮羽町と旧吉井町が合併してできた市です。福岡県の南東部に位置し、南には耳納連山を抱き、北には筑後川が流れる自然に恵まれた地域です。
【正平塔】
うきは市吉井町千年の小江の集落の中、 北新川沿いの田畑の中にひっそりとたたずむ石塔が市指定史跡の正平塔です。 この塔が建てられたのは1363(正平18・貞治2)年、中世の南北朝時代のことです。南北朝時代までさかのぼる石塔は福岡県下で見てもとても古く、貴重なものです。
当時、日本各地で南朝方と北朝方それぞれに分かれた地方豪族達の争乱が頻発していましたが、1359(正平14・延文4)年、大規模な戦が勃発します。 関ヶ原合戦、川中島合戦と並んで日本三大合戦とも呼ばれる大保原合戦(大原合戦、筑後川合戦)です。 筑後川を挟んで両軍10万ともいわれる大軍が戦いました。この戦いは結果として南朝方の勝利に終わり、以降九州は13年間、南朝方の支配下となります。
正平塔には次のような銘文が刻まれています。「願以此功徳、普及於一切、我等與衆生、皆共成佛道 (願わくば此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等も衆生とともに、皆共に沸道に成ぜん) 正平十八年七月十八日 調衆各敬白(調衆各々敬って白す) 」。 銘文の最後に建立者として刻まれている 「調衆」とは、星野氏と、同族の黒木氏、川崎氏の3氏を総称するものです。星野氏をはじめ彼らもまた、南北朝の動乱の中で多くの一族郎党が犠牲となりました。この銘文は法華経の一節で、数多の戦の中で散っていった南北両軍の全ての犠牲者の供養を願っていることが読み取れます。正平塔には、長年の戦乱を経験した星野氏ら調衆の、平和への願いが込められていたのかもしれません。
石には太古の昔から不思議な力が宿っていると信じられてきました。静かな田畑の中で忘れ去られたようにたたずむ正平塔は、今日も静かに祈りを捧げ続けています。問合せ先
うきは市生涯学習課
☎0943-75-3343
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久留米市(文責:久留米市)
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福岡県久留米市は筑紫平野の中央部に位置し、筑後川や耳納山地がもたらす恵まれた自然・地理的環境のもと、太古の昔から人々が行き交い、生活を送っていたことを物語る多数の歴史遺産が市内に存在します。菊池一族の盛衰に大きく関わった高良山をはじめ、多くの遺跡があります。
【高良大社・毘沙門岳城(御井町)】
高良山は、筑紫平野と大宰府を一望する場所にあります。懐良親王と菊池武光南朝方は高良山を拠点として、大宰府の北朝方少弐氏と戦い、遂には九州を制覇しました。
その後、北朝方の今川了俊が大宰府を奪還すると、再び南朝方の拠点となり、了俊と筑後川を挟んで勢力争いが続いています。
高良山の山頂には、毘沙門岳城跡があります。懐良親王が在城したとされる城で、空堀や土塁などの遺構が残っています。その直下にある高良大社奥の院には湧水があります。この湧水には、北朝方に高良山を包囲され窮地に陥った懐良親王らが、出陣に際しこの水で杯を交わしたところ、戦わずして敵が退去したという伝説があり、「勝ち水」と呼ばれています。【龍護山千光寺(山本町)】
日本に臨済禅を伝えた栄西が、1192(建久3)年に創建したと伝えられる寺院です(現在は曹洞宗)。境内には、江戸時代に星野村大円寺から移された懐良親王の供養塔や廟、討死した貴族たちの墓など南朝関係の遺跡がある一方、西暦1377年を示す北朝の年号「永和三年」銘を持つ梵鐘もあります。
6月には、境内は7,000株ものアジサイに彩られ、多くの人で賑わいます。
【宮ノ陣神社・遍万寺(宮ノ陣町)】
宮ノ陣町は、懐良親王が陣を置かれたことを由来とした地名です。大保原合戦後、武光の弟武邦は兄の命により、懐良親王お手植えと伝わる「将軍梅」の傍らに庵を構え、戦死者を弔いました。庵は浄土真宗遍万寺となり、代々武邦のご子孫が住職を勤められています。隣には、良成親王・懐良親王を祭神とした宮ノ陣神社があります。社殿には、八女市五條家の旗に描かれた八咫烏を模した神文彫刻があります。
同町には、大保原合戦の戦死者を供養する五万騎塚もあります。問合せ先
久留米市教育委員会文化財保護課
☎0942-30-9225
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大刀洗町(文責:大刀洗町)
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福岡県大刀洗町の町名は、南北朝時代の1359年、肥後の豪族・菊池武光率いる南朝方と筑前大宰府を本拠とする小弐頼尚率いる北朝方が、現在の小郡市大保付近で激突した「大保原合戦」に勝利した菊池武光が、激戦で血の染まった太刀を川で洗った、という故事に由来しています。かつて東洋最大と謳われた陸軍大刀洗飛行場もその名を冠しています。
また、町のランドマークとして荘厳な威容を誇る今村カトリック教会は、隠れキリシタンの信仰をその祖とするなど、歴史のロマンあふれる町です。【菊池武光像】
大刀洗川のほとりに広がる大刀洗公園。その中央部に菊池武光の銅像が大刀洗川を見下ろすようにそびえ立っています。1937(昭和12)年に立てられたこの像は、全国的にも珍しい下馬した姿で、今まさに太刀を洗おうとしているかのようです。
馬の胴体や台座の傷跡は、第二次世界大戦中の昭和20年3月、大刀洗飛行場を標的とした大刀洗空襲の際の機銃掃射や爆撃によるものだと伝わります。
自身が激戦を繰り広げたこの地が再び戦禍に巻き込まれる様を、武光はどのような思いで見つめていたのでしょうか。【菊池渡】
大刀洗公園には、菊池武光が太刀を洗った場所とされる「菊池渡」があります。問合せ先
大刀洗町地域振興課
☎0942-77-0173
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八女市(文責:八女市)
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福岡県八女市は、隈府と高良山や大宰府を繋ぐ位置にあり、幾度も戦場となったところです。また、懐良親王、そして懐良親王の後を継承して後征西将軍宮として南朝方を指揮した良成親王が拠った地域と伝えられています。市内には、南朝方にまつわる歴史遺産が数多く残されています。
【大杣公園・大杣公園祭】
後征西将軍宮 良成親王墓。1878(明治11)年に現在の宮内庁が墓に認定し、代々、五條家の子孫が守部に任命され守られています。
大杣公園祭は、良成親王命日の10月8日に執り行われ、約600年前から続く祭りです。この地で没した親王の御霊を慰め、公卿歌や浦安の舞が奉納されます。【黒木の大藤(指定名称:黒木のフジ)】
この藤は、後征西将軍良成親王のお手植えと伝えられ、幾多の戦と大火に見舞われながらも、樹齢600年以上を数える今でも力強く生き続けており、国の天然記念物に指定されています。大藤のある素盞嗚神社には、約3,000平方メートルもの広大な藤棚が広がっており、毎年4月中旬ごろに開花し、1メートルを超える花房を垂下させます。開花期間中に開催される黒木大藤まつりには、全国から多くの人が訪れます。【五條家・御旗祭り】
五條家の始祖・頼元は後醍醐天皇の命で、南北朝の争乱に際し幼少の懐良親王に随行し、九州に下向しました。また、北朝勢力の打倒を謀るため、菊池一族とともに忠勤を尽くしました。
重要文化財五条家文書には、後醍醐天皇の綸旨などがあり、南朝方の動向を物語る重要な資料です。「八幡大菩薩旗(金烏の御旗)」は、後醍醐天皇が、皇子・懐良親王を征西将軍に任命した時、その「しるし」として、授けられたものです。これらの品々は、例年秋分の日に開催される「御旗祭」で一般公開されます。問合せ先
八女市教育委員会文化振興課
☎0943-23-1982
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熊本県菊池市(文責:熊本県菊池市)
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熊本県菊池市は県北部に位置し、南西部は熊本平野の北東端にあたり、北部は大分県に接しています。菊池一族の本拠地であった菊池市には、多くの史跡が残されています。
【菊池神社】
十五代武光の存命中に家督を譲られた十六代武政は、菊池本城を隈府へと移しました(守山城)。この地は現在に至るまで菊池の中心地として栄え、明治時代には天皇の命により菊池一族の遺徳を称えて本城跡に菊池神社が建立されました。【将軍木と松囃子能場】
武光は後醍醐天皇の皇子・懐良親王を迎えると、九州における南朝方の政府「征西府」が菊池に置かれました。親王のために披露したとされる「菊池の松囃子」(御松囃子御能)は国重要無形民俗文化財に指定され、現在も守り継がれています。懐良親王お手植えと伝わる将軍木(県指定)を親王に見立て、毎年10月13日に菊池松囃子能場(県指定)にて奉納されます。【正観寺と菊池五山】
武光は領主が寺院の格付けを行う「五山制度」を室町幕府に先んじて取り入れました。東福寺、西福寺、南福寺、北福寺、大琳寺の五寺、そして自らが建立した正観寺を「五山の上」に位置づけました。正観寺には武光の墓があり、現在も菊池の人々を見守っています。【亀趺の墓】
菊池市には「亀趺の墓」と呼ばれる菊池一族の墓が4基残されています。十三代武重、十五代武光、十七代武朝、二十三代政隆の墓で、全て市の指定文化財になっています。亀趺の墓とは、亀蛇と呼ばれる空想上の生き物の背の上に墓碑が乗った墓のことで、めざましい孝徳を積んだ人にだけ許される特別な墓です。熊本県内では菊池市でしか見られません。武光の墓(神道碑)
熊耳山正観寺(東正観寺)にあります。正観寺のクスの樹下にあった墓は時代とともに廃れ、江戸時代には荒れ果てていました。文教菊池の祖とされる渋江紫陽・松石親子はそれを憂い、菊池一族の顕彰の大きな柱として武光墓所の整備に尽力します。そして、同じ南朝方の立役者楠木正成に亀趺の墓が許されるのなら、武光もそうあるべきだと考えます。その願いが成就し1779(安永8)年、湊川神社(神戸市)にある正成の墓に倣って武光の墓が造られました。亀蛇は細面で吊り上がり気味の鋭いまなじりを持つ、とても凛々しい顔立ちです。武重の墓
先に造られた武光の墓に倣って、1816(文化13)年、輪足山東福寺(亘)の歓喜院と呼ばれていた場所に建てられました。武光の亀蛇よりやや丸顔ですが、切れ長の鋭い目元など武光のものとよく似た、すっきりとした顔立ちをしています。武朝の墓
菩提寺といわれる真徳寺跡(金峰)にあります。前の2基とはやや趣を異にし、亀蛇の顔や体つきは丸みを帯びています。大きな楕円形の目玉が特徴的な亀蛇です。1961(昭和36)年に武朝の墓であることが確認されました。政隆の墓
久米原の戦いに敗れ19歳で果てた政隆の墓は、自刃した安国寺(久米一)の裏手にあります。この亀蛇は、初期に造られたものと比べ、全体的に丸みを帯びた柔らかい体つきが特徴です。丸顔にまん丸の瞳、太くて長い首など愛らしく親しみやすいものとなっています。問合せ先
菊池市観光振興課
☎0968-25-7232
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