市の紹介
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市のあらまし
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位置と地勢
本市は、福岡県の南部、筑紫平野の北、佐賀県との県境に位置しています。南東を大刀洗町 と久留米市に、西は佐賀県、北東は筑紫野市と筑前町にそれぞれ接しています。東西6キロメートル、南北12キロメートルにわたる区域で、総面積は45.51平方キロメートルあります。
東北の台地には標高130.6メートルの花立山があり西北丘陵地帯は、なだらかな丘陵が連なりため池が点在しています。
また、市の中央部を南北に貫流する宝満川を挟んで、西側に住宅地帯、東側に田園地帯が広がっています。沿革
本市の歴史は古く、縄文期以降の三沢遺跡、花立山古墳をはじめとして数多くの遺跡、古墳などが散在し、日本書記に「筑紫小郡」が記されています。筑前、筑後、肥前の境界に位置し、大宰府にも近く、古くから交通の要衝であり、奈良時代には「小郡官衙(かんが)」が置かれ、江戸時代には「坊の津街道」「筑前街道」が松崎周辺を通過し、宿場町として栄えていました。
明治時代に国道3号、国鉄鹿児島本線等の近代的交通網からはずれ、交通の要衝という地域発展の条件を失いましたが、大正13年には西鉄大牟田線の福岡、久留米間が開通しました。
明治22年、町村制の施行により小郡村が誕生。
昭和28年、小郡村から小郡町となり、昭和30年に三国村、立石村、御原村、味坂村の1町4村が合併し、小郡町になりました。
そして、人口急増により昭和47年に市制を施行し、その後も、市北部の住宅開発等により人口の増加が続き現在に至っています。交通条件
市域を九州自動車道と大分自動車道の二つの高速道路が通り、市内および隣接にインターチェンジが建設されたことにより、短時間で広範囲の都市との連絡を可能にしました。
また、市内を東西に走る国道500号を中心として、縦横に県道や市道などの生活道路が張り巡らされています。
鉄道は、西鉄天神大牟田線が市域を南北に貫き、小郡駅をはじめ7つの駅があり、東西に通じている甘木鉄道では5つの駅があります。
県都福岡市へは鉄道で30分の距離にあり交通の便がよい都市です。産業
農業は、本市の基幹産業として位置付けされ、農業の振興を行ってきました。
農業を取り巻く環境は年々厳しさを増しておりますが、農業の持続的発展を図るため、農村と都市住民との交流が課題となっています。
商業は、自動車社会の定着により、商業ゾーンが変化しており、時代の流れに即応した商店街の形成や商業の活性化等が大きな課題となっています。
工業は、干潟工業団地、上岩田工業団地を中心として事業所が立地しています。
さらに、交通ネットワークの整備に伴うインターチェンジの開通などにより、物流基地としての機能も期待されています。
観光は、将軍藤や松崎の桜馬場、花立山など四季折々の豊かな自然と豊富な埋蔵文化財など、自然資源や歴史資源と連携した観光振興に期待が寄せられています。市の木・花・鶏
昭和57年、市制施行10周年を記念して制定
市の木『くすのき』
水と緑、豊かな自然を象徴するかのように、大地にしっかり根を張りたくましくのびています。
市勢の発展、伸びゆく小郡市の力強さ、たくましさを強く感じさせる木です。
市の花『ふじ』
県指定天然記念物「将軍藤」が福童の大中臣神社にあり小郡市のシンボルとして親しまれています。
樹齢650年以上、根本周辺3メートルに及び、開花時には見事な淡い紫色の花を咲かせる上品で優雅な花です。市の鳥『しらさぎ』
小郡音頭にもうたわれ、市内随所に飛び交っています。
群れをなして飛ぶ光景は情緒があり、田園都市としての市の発展を見守っているようです。
冊子「おごおりのあらまし」
P1-12 全体版(PDF:4,132KB) P1 表紙(PDF:533KB) P2-3 小郡市の概要(PDF:1,743KB) P4-5 おごおりデータ(PDF:785KB) P6-7 おごおりデータ(PDF:716KB) P8-9 おごおりデータ(PDF:726KB) P10-11 小郡のあゆみ(PDF:774KB) P12 小郡のあゆみ(PDF:422KB)
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交通アクセス
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車での所要時間
- 久留米市より車で25分
- 鳥栖市より車で15分
- 国道3号線よりお越しの方は、鳥栖市姫方交差点より、国道500号線に入り甘木方面へ直進
- 福岡市より高速道路をご利用で約40分(鳥栖インターチェンジ下車)28.9キロメートル
- 北九州より高速道路をご利用で約70分(鳥栖インターチェンジ下車)83.9キロメートル
- 日田市から高速道路をご利用で約35分(筑後小郡インターチェンジ下車)36.6キロメートル
駐車場および駐車場の場所については庁舎見取図をご参照ください。
≫ 庁舎見取り図のページ(サイト内リンク)公共交通機関にて
西鉄電車天神大牟田線ご利用の方は、- 福岡天神駅より小郡駅まで急行で約30分、普通で約50分
- 久留米駅より小郡駅まで急行で約8分、普通で約13分
西鉄時刻表(にしてつグループホームページ)(外部リンク)
JRをご利用の方は、- 博多駅より鹿児島本線下り基山駅まで約30分
- 甘木鉄道に乗り換え小郡駅まで約7分
JR時刻表(JR九州ホームページ)(外部リンク)
甘木鉄道時刻表(甘木鉄道株式会社ホームページ)(外部リンク)
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小郡市徽章
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小郡市徽章(おごおりしきしょう)
昭和34年10月15日に条例で制定。
【由来】
漢字の小郡の「小」を図案化したもの。
三沢付近の鴨(かも)にちなんで鳥の形に「小」を図案化し、小円の中心から末広がりになった▲(円すい)は財政の発展を意味し、市の中心部の発展をしっかりと抱え込んで、市民の盛り上がる力を意図した。
円は円満を意味する。【図案の書き方】
・上の小円は、大円の半分。
・小円の中心点から末広がりに広がる。
・末広がりの三角形の底辺部分の幅は、小円の直径と同じ広さ。【申請方法】
※徽章使用の際は、小郡市への届け出が必要です。メール、持参で申請
申請書(Word:19KB)・(PDF:78KB)に必要事項を記入の上、提出してください。
メール:somu-s@city.ogori.lg.jp
持参:総務課総務法制係(本館2階)
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小郡市市歌
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小郡市市歌は、小郡市市制15周年を記念して出来ました。
- 歌詞は詩人の丸山豊氏(久留米市)
- 作曲は福岡教育大学長(九響名誉指揮者)安永武一郎氏
- 編曲は久留米音楽協会合唱団常任指揮者本間四郎氏
小郡市は、NHK福岡放送局の協力で同スタジオにおいて、久留米音楽協会合唱団の混声四部により収録が行われました。
また、市民に親しみやすく、市民まつり・運動会などの行進で使えるようにマーチ風にアレンジした曲を福岡県警察音楽隊の演奏で収録がおこなわれました。発表は昭和62年11月3日市制施行15周年記念式典において、小郡フラウエンコール(女声合唱団)により行われました。
注記:下記の市歌(歌詞・楽譜含む)の著作権は小郡市に帰属します。下記のファイルを、ウィンドウズ メディア プレイヤーなどのプログラムで開くことにより市歌をお楽しみいただけます。歌詞
楽譜
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七夕の里・おごおりシンボルマーク
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(商標登録第2585558号)
【イメージコンセプト】
七夕の里・おごおりの「七」をモチーフに、宝満川と田園の広がりをシンボライズ。
二つの星は彦星と織姫、流れるラインは天の川と市民の願いを込めた短冊であり、その重なり合う様子は市民のコミュニケーションを意味しています。
また、全体のフィルムは希望を奏でる鳥であり、「あなたとわたし」そして「夢」と「結」を象徴する&(アンド)を表現するものです。勢いよく交差したラインは、躍動と調和を強調し、発展し続けていく小郡市の姿をイメージしています。【申請方法】
※シンボルマーク使用の際は、小郡市への届け出が必要です。(1)メール、持参で申請
シンボルマーク使用届出書(PDF:61KB)に必要事項を記入の上、提出してください。
メール:kikaku@city.ogori.lg.jp
持参:経営戦略課政策推進係(本館2F)(2)インターネットで申請
専用フォーム(外部リンク)から申込み
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七夕アラカルト
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七夕伝説が根づく風土
今から千年以上前に作られた「延喜式」という書物に、各地から朝廷に差し出す献上品の一覧表が残っています。それによると、小郡を含む筑後の国の献上品は「米と織物」になっていることから、小郡周辺では機織りが盛んに行われていたと考えられます。
この織物産業に携わっていた人々は、古来より織物に関わる「棚機津女(たなはたつめ)」を信仰していました。伝来してきた中国の「七夕」(しちせき)信仰の織女物語と日本古来の「棚機津女」の信仰がいつの間にか混ざりあい、織女と棚機津女が同じものになったと考えられます。その関係で「七夕」(しちせき)の字も「たなばた」と読むようになったのかもしれません。
七夕伝説を地上に再現した郷土
小郡の大崎には、『肥前国風土記』に由来が記されている七夕神社(正式名称は媛社神社。祭神は織女神と媛社神)があります。寛文10(1670)年に記された『久留米藩社方開基』によると、大崎村の氏神として岩船大明神のみが記されていましたが、神社で祀っている織姫神像の台座裏面には明和6(1769)年の墨書が、嘉永7(1854)年建立の鳥居の額には「棚機神社」「磐船神社」の2つの名があることから、江戸時代中期頃より七夕祭りが流行し、それに伴い古代の媛社がよみがえって棚機神社となり、七夕様を祀った神社として信仰するようになったと考えられます。
古老の話によれば、終戦までの8月6日は早朝から翌7日の朝にかけ、大崎へ通じる道路はすべて参拝者が列をなし、南は大牟田・八女、北は福岡といった遠方からも、お参りがあったとのことです。
また、宝満川を天の川に見立てると、右岸(西側)に織女神を祀る七夕神社が、その対岸には犬飼神を祀る老松神社があります。犬飼神とは牽牛(=彦星)のことであり、もともと下岩田の星路町に犬飼神を祀る祠がありましたが、大正11年の耕地整理の際、稲吉の老松神社に合祀されたそうです。「星路町」という地名は七夕信仰から生まれた地名であり、そこに牽牛を祀っていたというのは、昔の人の七夕へのロマンが感じられます。七夕太鼓 (白鷺会(はくろかい))
「おごおり七夕太鼓・白鷺会」は、まちづくりに創作太鼓をという田篭市長の意向を受けて、平成8年1月に発足しました。
太鼓の指導の経験があることから、七夕太鼓創設の話を持ちかけられた竹内努さん(大原)は、同志と共に準備を始めました。和太鼓のプロ集団「道(タオ)」の指導を受け、練習を開始。市の鳥しらさぎにちなみ白鷺会と命名しました。
力強い牽牛を思わせる直径六尺の大締桶胴太鼓(おおじめおけどうだいこ)は県内最大で、優美華麗な織姫を思わせる直径三尺の赤巴長胴太鼓(あかともえながどうだいこ)は九州で初めてのもので、七夕太鼓のシンボルです。
同年8月、七夕物語を再現した曲「伝説」でデビュー。この曲は、出会い、恋に落ち、そしてつらい別れの後の楽しい再会で未来へ希望を抱く織姫と牽牛を表現しており、まさに七夕の里おごおりを象徴しています。
現在白鷺会は、市民まつりやふれあい運動会など市のイベントや各地区の行事に参加し、活躍しています。最近やっと、心にジーンとくる音が出せるようになったと話す竹内さんらは、白鷺会ならではの感動を与えるような演奏をしたいと練習に励んでいます。きらめきの塔
「きらめきの塔」はコンペ方式により、本市の玄関である小郡駅前広場を飾る七夕のモニュメントとして、出品された秀作15案の中から七夕の里づくり委員会の厳正な審査により選定され、平成3年7月に完成しました。
また、平成28年8月にリニューアルし、噴水部分に花壇を設置、上部のイルミネーションを新しくすることにより、色鮮やかな塔となりました。
この塔の姿は、星のきらめき、銀河の輝きをイメージしており、七夕伝説の織姫と彦星を中心に、天球図譜の中から抜け出した双子座、魚座、子犬座、白鳥座、一角獣座が幻のようにめぐって、星と星座の伝説が伝える夢とロマンをやさしく美しく、あこがれをこめて表しています。
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人・歴史
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野田 宇太郎
詩人であり、出版・編集者でもあり、また「文学散歩」の創始者として有名な野田宇太郎は、郷土(松崎)が生んだ文学者です。
詩人としての活動は、昭和5(1930)年、久留米に出て同人誌「街路樹」に参加したところからはじまります。
昭和15年(1940)年に上京した野田は、雑誌「新風土」を編集し、下村湖人の埋もれた原稿「次郎物語」を出版するなど、出版編集者としても活躍しました。
「文学散歩」の語は、野田の創案によるもので、昭和26年(1951)年「日本読書週間」に「新東京文学散歩」を連載したことからはじまります。
野田が「文学散歩」の執筆を決意したのは、戦争と戦後の無残な文化遺産、自然風土の破壊に対する文学者としての憤りからでした。
藤村記念堂、鴎外記念館、明治村の建設、白秋生家の復元、歴史的風土の保存への情熱と尽力は、「文学散歩」の意義の実践でした。高松 凌雲
天保7年(1836)、筑後国御原郡古飯村(現在の小郡市古飯)の庄屋高松家の三男として生まれた高松凌雲は、24才の時にて医学の道を志します。江戸で 医学の修行をした後、大阪の適塾に入門。その後一橋家に仕官したのをきっかけに、慶応2年(1866)には15代将軍徳川慶喜の奥詰医師を命ぜられまし た。
慶応3年には徳川昭武(慶喜の実弟)に随行して渡仏した凌雲は、そのまま欧州にとどまり、医術(外科学)の研究を続けていましたが、翌年、戊辰戦争勃発の 報せを受け、急遽帰国の途につきます。帰国後は幕軍と行動を共にしますが、病院頭取として敵味方の別なく傷病兵の治療にあたりました。戦争終了後、一町医 者として開業し、明治12年(1879)には医師仲間と「同愛社」を設立し、貧民施療に努めました。
大正5年(1916)東京の自邸で81才の生涯を閉じますが、「同愛社」は昭和20年(1945)まで続き、戦前の日本における社会福祉医療の一端を担っていました。小郡歴史年表
約15000年前 (旧石器時代) 津古上ノ原遺跡(ナイフ形土器) 約2000年前 (弥生時代中期) 大板井遺跡(大集落)、小郡若山遺跡(多鈕細文鏡)、横隈狐塚遺跡(共同墓地) 4世紀ごろ (古墳時代) 津古生掛古墳、三国の鼻1号墳、津古1・2号墳(前方後円墳) 6世紀ごろ (古墳時代) 三国丘凌・花立山麓に群集墳 7世紀ごろ (白鳳時代) 上岩田・井上に大寺院 7世紀ごろ (奈良時代) 小郡官衙遺跡(郡役所) 1359年 (室町時代) 大保原合戦 1374年 (室町時代) 福童原の戦い 1624年 (江戸時代) 石井堰築造(干潟) 1647年 (江戸時代) 稲吉堰築造 1668年 (江戸時代) 有馬豊範に松崎藩1万石を分知、松崎宿設置 1673年 (江戸時代) 津古堰築造 1772年 (江戸時代) 大板井堰築造 1848年 (江戸時代) 端間堰築造 1873年 (明治6年) 松崎郵便取扱所設置、小郡郵便取扱所(のちの小郡郵便局) 1876年 (明治9年) 松崎巡査屯所設置 1877年 (明治10年) 乙隈彼岸土居の戦い 1888年 (明治21年) 久留米治安裁判所松崎出張所(のちの福岡法務局三井出張所) 1914年 (大正3年) 松崎実業女学校(のちの三井高等学校)開校 1914年 (大正3年) 送電開始(小郡) 1918年 (大正7年) 電話開通(三国) 1921年 (大正10年) 中央軌道松崎~小郡開通 1924年 (大正13年) 九州鉄道(のちの西日本鉄道)福岡~久留米開通 1938年 (昭和13年) 国鉄甘木線開通 1941年 (昭和16年) 県種畜場完成(三沢) 1947年 (昭和22年) 大原中学校開校
立石中学校開校
宝城中学校開校1948年 (昭和23年) 農業共同組合(各村)設立、三国保育所開所 1953年 (昭和28年) 筑後川大水害、保安隊小郡駐屯地設立、御原保育所開所 1954年 (昭和29年) 城山公園開園 1957年 (昭和32年) 三沢ピクニックセンター開園 1958年 (昭和33年) 有線放送開始 1961年 (昭和36年) 商工会設立 1962年 (昭和37年) 町役場新築移転(現在地) 1963年 (昭和38年) 宝満川大水害 1964年 (昭和39年) 農業共同組合(町)設立 1967年 (昭和42年) 福岡小郡電報電話局開局 1970年 (昭和45年) 中央公民館新築 1971年 (昭和46年) 学校給食センター完成、小郡官衙遺跡国史跡指定 1972年 (昭和47年4月) 市制施行 大原合戦
小郡市役所東隣に東町公園があり、その正面高台に「大原古戦場碑」と刻んだ大きな自然石の記念碑があります。
正平14年(1359)8月征西将軍懐良親王を奉じた菊池武光の大軍4万と、小弐頼尚の大軍6万が大保原を中心に一大決戦を展開しました。
とくに8月7日の一日の戦闘で両軍の戦死者5千4百5十余人、戦傷者を合わせ2万5千余人にも及ぶ激戦であったと伝えられています。
この碑のあたりから西鉄小郡駅前あたりまでの地域を「前伏」というが、これは大原合戦の際、小弐軍が前衛の兵を配置していたとこらから、このような地名が生じたといわれています。
また、この南側の地域は「高見下」と呼んでいるが、これも同様に小弐軍の物見があった場所と思われ、現在は平地になっているが、昭和30年代までは10数メートルの高台になっていた台地の南斜面下に当たることから、この地名も合戦に関係した地名と考えられます。